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宗教二世問題は児童虐待なのか?信教の自由との狭間で

  • 執筆者の写真: 道民の会広報部
    道民の会広報部
  • 6月20日
  • 読了時間: 6分

近年、クローズアップされている「宗教二世問題」は、信教の自由という普遍的権利と、子どもの人権、特に児童虐待の定義との間で複雑な問いを投げかけています。果たして、親の信仰に基づく子育ては、どこからが虐待と見なされるのでしょうか。そして、政府の介入は、その線引きを誤り、問題を感じていない宗教二世をも恣意的に棄教に追い込む危険性をはらんでいないでしょうか。



特定の宗教に限られる問題なのか?

宗教二世問題は、特定のカルト的と評される団体に限った問題であると認識されがちですが、本質的には、多かれ少なかれ、どのような宗教においても起こりうる問題です。もちろん、その深刻度や表面化の仕方は、教義や共同体の特性によって大きく異なります。例えば、輸血を拒否する宗教や、特定の医療行為を禁じる宗教、あるいは厳しい戒律を子どもにも強制する宗教などでは、子どもの生命や健康、教育の機会が脅かされる可能性が指摘されています。


しかし、多くの宗教は、その教えを次世代に伝えることを重視しており、信仰を共有することは、家庭内の絆を深め、精神的な安定をもたらす側面も持ち合わせています。問題となるのは、それが子どもの意思や発達段階を無視し、過度な制限や精神的・肉体的苦痛を伴う場合です。



親の信仰を子どもに伝えることが問題なのか?

親が子に自身の信仰を伝えること自体は、信教の自由の範疇であり、決して問題ではありません。むしろ、それは親が子に与えたいと願う価値観の一つであり、文化や伝統の継承という側面も持ちます。問題の核心は、その伝え方、そして子どもに与える影響にあります。


例えば、以下のようなケースは問題視されるべきでしょう。

  • 教育の機会の剥奪: 特定の教育機関への進学を禁じたり、学校教育の内容を否定したりすることで、子どもの学習権や将来の選択肢を著しく狭める場合。

  • 医療の拒否: 宗教的教義に基づいて、必要な医療行為を拒否し、子どもの生命や健康を危険に晒す場合。

  • 精神的・肉体的抑圧: 信仰を理由に、子どもに対して過度な労働を課したり、自由な交流を制限したり、精神的な圧力をかけ続けたりする場合。

  • 身体的虐待・ネグレクト: 信仰の名の下に、体罰を正当化したり、十分な食事や休息を与えなかったりする場合。

  • 自己決定権の侵害: 子どもが成長し、自己の意思を持つ段階になっても、親の信仰を強制し、他の選択肢を認めない場合。


これらは、児童虐待防止法の定義する「児童虐待」(身体的虐待、性的虐待、精神的虐待、ネグレクト)に該当する可能性が高いと言えます。親の信教の自由は、子どもの人権を侵害する範囲において制限されるべきという国際的な原則があります。



政府の政策は信教の自由を侵害しないのか?恣意的な介入の危険性

宗教二世に対してスクールカウンセラーによる相談支援やシェルターの提供など、政府や自治体による支援策は、子どもの人権保障という観点から必要不可欠な措置と考えられます。信教の自由は、あくまで個人の信仰の自由を保障するものであり、他者の権利、特に子どもの発達途上にある人権を侵害することを許容するものではありません。政府の役割は、国民全体の福祉を保障することにあり、その中には、自らの意思を十分に表明できない子どもたちの権利を保護する責任が含まれます。


しかし、この問題には**極めて慎重なアプローチが求められます。**というのも、政府側のアドバイザーに、いわゆる「全国弁連」(全国霊感商法対策弁護士連絡会)など、特定の宗教に対する脱会支援や「ディプログラミング」(信仰からの解放を促す試み)に深く関与してきた人物が情報提供している可能性が高いからです。彼らの活動は、被害救済という側面を持つ一方で、特定の宗教を問題視し、信者を信仰から引き離すことを目的としているとの批判も根強く存在します。


もし、このような人物の知見のみに依拠して政策が立案・実行された場合、以下のような危険性が生じます。

  1. 「問題を感じていない」宗教二世への不当な介入: 親の信仰を自らも肯定的に受け入れている、あるいは信仰を通じて健全な生活を送っている子どもに対しても、「宗教二世」というレッテルを貼ることで、あたかも問題があるかのように誘導し、不必要なカウンセリングや支援を押し付ける可能性があります。これは、本人の意思に反して信仰から遠ざける、事実上の「棄教」を促す行為になりかねません。

  2. 特定の宗教への偏見の助長: 政府の介入が、特定の宗教に対する社会的な偏見を助長し、信者やその家族への差別につながる可能性があります。

  3. 信教の自由の恣意的な制限: 子どもが親の信仰を継承すること自体を問題視するような政策は、信教の自由の根幹を揺るがしかねません。個人の信仰の自由は最大限尊重されるべきであり、その制限は、真に子どもの人権が侵害されている場合に限定されるべきです。


スクールカウンセラーが、本来は中立的な立場で子どもの相談に乗るべきところ、特定の宗教を問題視するような言動を取ったり、脱会を前提とした支援を促したりするようなことがあってはなりません。シェルターもまた、あくまで緊急避難の場であり、子どもの意思に基づかない信仰からの離脱を強制する場であってはならないのです。



複雑な課題への向き合い方

宗教二世問題は、一概に「児童虐待である」と断じることのできない複雑な側面を持ちます。しかし、その背景には、信仰という名の下に子どもの人権が軽視され、自己決定権が奪われている現状があります。


重要なのは、個別のケースにおいて、何が子どもの最善の利益となるのかを慎重に見極めることです。そのためには、宗教団体への理解を深めつつも、決して安易な擁護に走らず、子どもの声に耳を傾ける姿勢が不可欠です。同時に、政府や自治体の介入は、特定の宗教に対する予断や偏見に基づいて行われることがないよう、厳格な中立性と客観性が求められます。


政府、教育機関、医療機関、そして市民社会全体が連携し、宗教二世が安心して自己の意思を表明し、必要であれば支援を受けられる体制を強化していくことが求められています。そして、その支援は、子どもの人権を尊重しつつも、信教の自由を不当に侵害しないよう、細心の注意を払って行われるべきです。


私たちは、子どもの健やかな成長を守るという大義のもと、信教の自由という普遍的権利との間で、いかにバランスの取れた、そして公正な社会を築けるかを問われています。この複雑な課題にどう向き合っていくべきか、引き続き議論を深める必要があるでしょう。


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